雑多な日記

雑多である

数学科の人間の話し方が独特なのは何故か

 ここ2,3日クソみたいな通勤の苦痛からただ気を紛らわせるためにつらつらと考えていたことを吐き出す。整理する気もないしできない。

具体と抽象

 万物に対してこれはそれよりも抽象的だ、とかそういうことが言えると思う。あらゆるものに対してそういう比較を行なっていけば、中には大体同じくらい具体的あるいは抽象的なものの集合が作られる。その集合の要素はだいたい抽象度が同じということにする(抽象度という言葉の意味があっているのかは微妙)。そうすると今度は抽象度ごとに階層のようなものを考えることができる。'犬'は'ポチ'よりもひとつかふたつ上の階層だ。どうでもいい脱線だが、'ポチ'という名前はもはや「犬の名前の例」として'example.com'みたいな感じで他の犬につけられる名前よりも抽象度が上がっているような気がする。話は戻って、そうして抽象度の階層を考えたら今度はまた別に人間のものを考えて、その結果を何かしらの言語として出力するプロセスを考える。
 ところで具体と抽象の話だとよく生物の分類階級が例に挙がるように思う。ここでも'ポチ'と'犬'というたとえを使っておきながら何をという話なのだが、この例は抽象的なものが、具体的なものの集合であるというような誤解を生みそうな気がする。そういった表現をするならむしろ具体的なものの方が、抽象的なものの集合である。抽象的なものは、より具体的なものから特徴となるようなものを一般化して取り出したものだからだ。

思考言語

 以前に、人間の思考の傾向が使用する言語に影響されるというような記事を読んだ。日本人が中国人と思想が異なる傾向があるのは、文化や環境だけではなく、頭の中で使用される言語もその一因であるという話だ。なるほどありそうだとは思ったが、言語と文化を切り離すことはできないので、検証できない話だ。この記事を読んで、本当に人間の思考に日常の言語が使用されているのか?という疑問が浮かんだ。厳密には違うように思った。確かに考える対象の単語が頭の中で使われることはあるように思うが、より抽象的な概念のようなイメージのようなそういうものを使ってものを考えているような気がする。「りんごが食べたいんご」と考えるときに、頭の中のイメージとしては「りんごと呼ばれる果物の概念そのもの」と「食べるという動作そのもの」が願望みたいな色のひもでつながってるような感じだ。そしてそれぞれに「りんご」や「食べるんご」に対して抱いているイメージや記憶といったものが紐づいている。これを他人に伝えるのなら、言葉に変換して「りんごが食べたいんご」と伝えることになる。しかし言語化されたものは、言語化される前の思考そのものとは等価ではない。抽象度を下げないと他人に伝えることができないのだ。
 ここで少し抽象度の話に戻るが、抽象度が高いということは、一度により多くの情報を扱えるという側面もあるように思う。「ポチは四足歩行だ」というよりも「犬は四足歩行だ」といった方が情報量は多い。ならばすべての人間が言葉なんぞよりも抽象的な概念でやり取りをすれば生産性が上がるのか、といわれるとそうはならない。だいたい日常生活で触れるものは比較的抽象度の低いものばかりである。それよりも抽象度の高いものを理解するにはそれなりの想像力が求められる。抽象的なものが理解が難しく、他人にものを説明する際には適切な具体例が効果的であるのはこの辺りが理由だ。言語によるコミュニケーションは、本来は伝える内容を言葉に変換することで抽象度を落として理解しやすくする反面、もともとあった情報量をかなり減らして伝達しているところがある。
 またどうでもいい脱線だが、知る限りの言語は一次元的で一方向であるところが気に入らない。「赤くておいしいりんご」といったとき、「赤い」という形容詞と「おいしい」という形容詞は共に「りんご」を形容するもので、これらは並列の関係にあるはずだ。本来は

|   赤い  | -> |        |
              | りんご  |
| おいしい | -> |        |

のように書きたい。ただし日本語では「赤くておいしいりんご」のように直列で書くほかない。発話される際には時間軸に沿って一方向である必要があるのはわかるが、文章の形はもう少し工夫の余地があるのではないだろうか。頭の中で考えた結果と、それを文章で表したものとでは微妙に乖離があるため、その変換に悩むのが面倒くさい。パワポとかで使われている表現が少し近いがあれはやっぱり違う。どちらかというとマインドマップみたいなのが言葉通りで、考えていることに近い。だいたいこうしてだらだらと書いているブログの文章がもうだめだ。文章に落とし込むという言葉あるが、文章になった結果がもともと考えていることと等価であることはあり得ないので、どうしても妥協してまあ意味は近いくらいの文章をひねり出さねばならない。

数学科の人間

 標題の数学科の人間についてである。私は高校数学は得意にしており、数学完全に理解したの状態だったのだが、大学に入ってすぐの大学数学の講義で数学なんもわからんの状態になった。一気に抽象度が上がったのである。そもそも数学という学問が扱うもの自体が抽象的で、私の理解力であれこれして抽象度をさげて自分の頭に落とし込んで理解するということができるレベルを超えてしまった。ちんぷんかんぷんで講義の大半をさぼるか居眠りで過ごした。幸いなことに私が入学したのは数学科ではなく工学部電気電子工学科である。工業数学というのは比較的抽象度が低く理解するのも難しくなかった。大学生活の中で理学部数学科の人間と話すことがあった。おや?となった。言いたいことはわかりづらいがわからなくはないし、意思の疎通はとれているのだが、他の人間とは何か話す言葉の色が違うのである。そこで過去に一瞬のうちに私を打ち砕いた数学とはどんな学問だったか、今私の目の前に立っている人間がどの学問を学んでいるのだったかを思い出し納得した。要は数学科の人間は私のような凡人と比較して、思考プロセスの抽象度が高いのだろう。あの化け物みたいに抽象的な学問であるところの数学を学ぶのだ。頭のインフラも抽象度を上げておかないと、いちいちあれこれ工夫して抽象度を下げて何とか理解するというプロセスを踏んでられないだろう。ある程度抽象度の高いままのそのままの状態で理解するのだ。そしてそんな思考から一気に抽象度の下がる言語に変換するのは容易ではない。出力された言葉が、複製されすぎてがびがびに劣化したデジタル画像のように、彼らの考えを(そもそも正確ではありえないが)正確に表したものではなくなってしまうのは仕方のないことだ。どんなに高度なことを思考できる頭を持っていても、バカ語を話せないとバカからは逆に馬鹿だと思われてしまうのが悲しいところだ。彼らのような抽象的な学問を修めた優秀な学生に対する待遇があまりにも悪いのは、彼らの頭脳を活用する側の人間が意思疎通できないことが原因なのかもしれない。天才が報われないのは世の中の大半が凡人であるからかもしれない。それにしては凡人側が幅を利かせすぎだとは思う。

おわり