雑多な日記

雑多である

要約しろって言われても難しくない?みたいな話

恥は鮮明な記憶へ

中学校に入学したばかりの頃、国語の教師主導で図書館の利用にあたってのオリエンテーションみたいなのがあった。最後になにか適当なテーマを決めて、覚えたての図書館の利用方法に沿って調べて発表することになっていた。たしか何かの動物をテーマに決めたと思う。思い出せないのでインコということにしておく。発表形式は国語教師からの質問に答える形で行うことになっていた。準備の段階では自信があった。

自分の番になってまず「調べたことを要約してください」みたいなことを言われた。わけがわからなくなりクラスメイト40人の前でフリーズした。

「ooについて調べなさい」ときたのでooを表現する情報、あるいは関係する情報をひたすらノートに箇条書きしていた。

インコの要約...?インコに関する情報とか全部並列じゃない?

重要度順に情報を出していけばいいか?しかしどの情報が重要かは人によるだろう。

この場合はだれが対象だ?国語教師か?クラスメイトか?

どちらにしも私はお前らのことなんぞ知らぬ。

主な生息地はどこか?みたいな聞き方してくれたらすぐ答えられるのに、なんて質問してくんねんばーかばーか。

めのまえがまっしろになった。

言葉で表現するとは

思えばこの頃から人に何かを伝えるのが苦手だった。

何かを説明している最中に「今使った表現は相手にものを伝えるのに最適だったか?いやこっちのほうがいいかもしれん」となって何度も言い直したり戻ったりして、聞き手からすると支離滅裂で余計にわかりにくいものになっていた。

これは今でもよくやる。

そしてそもそも言語が不完全であるのがよくないと言い訳をはじめている。

日本語以外まともに使えないため、ほかの言語については何とも言えないが、少なくとも日本語は一つ一つの表現の表す対象に結構広い幅があるものだと思う。

これも適切な例えかは自信がないが、表現が表そうとする対象(事象?)、つまり自身の主張であったり伝えたい状況であったりそういうものは空間上のある点だとする。

日本語によって表現できるのはどこか点の座標ではなく、範囲であるのだと思う。

どれほど言葉を尽くして、そしてそれが正確に伝わったとしても、まさにその点の座標というものは伝わることなく、あくまで大体このあたりという範囲しか伝わらないのではないか。

そのうえ一つの表現が表す範囲というものも、受け取る各個人の知識であったり経験であったりでぶれる。しかしより多くの表現を費やすことは、意味の範囲を狭めることにはなりそうだ。誤解の幅を減らす方がより誠実というものではないか。

そんな感じで「AないしB」とか「Aともちょっと違うけどどちらかというとB」みたいな表現を使いすぎてかえってわかりにくい表現を量産している。

これは要約しろと言われたときに求められる簡潔さとは程遠い。

ほな簡潔な表現目指そうや

簡潔さと正確さはトレードオフな気がする。

先により多くの表現を費やしてより正確なものを目指す方が誠実みたいなことを書いたが、私がうだうだと長文を書いて簡潔な話ができない最大の要因ではない。誤解が原因で責められるを恐れているのが一番大きい。

相手が「それってつまりこういうこと?」みたいな理解のすり合わせをしてくれるタイプだとあいまいな表現も使いやすい。しかしそんなコスト払うのめんどくさい人もいるし、一対多のコミュニケーションだとそういうすり合わせは難しい。そういう人にあいまいな表現を使って、自分が表したい点とはかなり遠いところとして伝わってしまって後で「お前あの時こういっとったやん」みたいなことになるのは大変めんどくさい。

整理できていない大量の言葉を並べ立てるのは、「まあ自分は正確に伝わるように言葉を尽くしましたけどね?誤解したのはそちらの責任では?」と自分に言い訳する材料づくりなのかもしれない。

大量の言葉を構造的にわかりやすいように組み立てるのが本当に誠実というものかもしれない。

伝える相手に正確に伝わるように、相手にとってわかりやすいように言葉を選んで話を組み立てる。それは相手がこれまでどんな経験をしてきただとか、どういうことを考えるとか、そういった相手に対する深い理解が必要になる。

私にはとても難しい。

世のいわゆるコミュ力のある人たちは適当に相手をラベリングしてうまいことやっている気がする。

人を騙そうという人たちはそういう簡潔な言葉の誤解の生みやすさを悪用している。

私は精一杯ぐちゃぐちゃな言葉を尽くして最後にもう一押し保険をかける。

知らんけど。

ケツのロン

なにかで哲学の分野では哲学を語るのにいい感じの理想言語なるものを作る試みがあったみたいな話を読んだ(とてもあいまいな記憶)。

世に名の残る哲学者とかいうめっちゃ賢い人たちの中に、やっぱ普段使う言語は何かを正確に語るのに不完全だよなみたいなことを考えた人おったんやな~わかるわ~みたいなことを思った記憶がある。

本棚に何回も読もうとして理解が及ばず撤退を余儀なくされている論理哲学論考という哲学書がある。

果てしなく難しい。

話によるとこれは言語の論理についてとんでもなく高いレベルで論じられているらしい。

きちんと読んで理解できるようになったら、この辺の考え方がまた変わるかもしれない。

めっちゃ賢い人がものすごい時間をかけて考えた成果物が数百円で売られていて、私はそれをかっこいいからという不純な動機ではあるが本棚に収めている。

読んで理解することをさぼってうだうだとものを考えるのは怠惰というやつか。

積読は罪

積みだけにwww

おわり